第40話 【フォースを使え!】「自我」の正体を知り、その力を弱める方法(前編)

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著者:倉園佳三

昨年の6月からスタートしたこの連載「フォースを使え!」も、今週で40話めとなりました。この場をお借りして、読者のみなさんに心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございます!

さて、記念すべき第40回のテーマは、「フォースな自分」の発動を妨げる「ノイズ」の本質を明らかにすることです。

これまでもさまざまな「ノイズ」について書いてきましたが、実は、そのすべてがある根源から生じています。今話と次話の2回に分けて、それがどのようなものか、どう対処すればいいのかを探っていきたいと思います。

◎ 「フォースな自分」を妨げる「ノイズ」の正体とは?

私たちの中には2つの異なる自分が存在しています。これまでこの連載では、それぞれを「イマイチな自分」と「フォースな自分」と表してきました。

ちなみに、拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』では、両者を「バラバラ意識」と「ひとつ意識」、あるいは「考えている自分」と「大きな自分」と呼んでいます。

「イマイチな自分」「バラバラ意識」「考えている自分」はふだんの私たちです。

それは、勝手な意味づけによって「恐れや不安」を抱き、すぐに「平安な心」を失ってしまう自分、「いまここ」という万能な時間を忘れて、過去や未来を思考することに膨大なエネルギーを費やしたくなる自分です。

一方の「フォースな自分」「ひとつ意識」「大きな自分」は、この世に生まれた瞬間の自分、すなわち本来の私たちです。

こちらは、どんなときでも「恐れや不安」のない「愛の選択」を行い、「いまここ」でそれぞれがもつ能力を最大限に発揮できる、まさに最強の自分です。

つまり私たちは、歳を重ねるに従って最強であるはずの本来の自分を忘れ、「イマイチな自分」に変わってしまうということです。

もちろん、それは自然に起こるような変化ではありません。ある要因によって、私たちは万能な「フォースな自分」よりも、悩み多き「イマイチな自分」であることを選んでしまうのです。

では、その要因とは何でしょうか。なぞなぞのようですが、「生まれた瞬間の私たちにはなくて、成長するに従ってもつようになるものなあに?」の答えを考えればわかります。

そう、答えはズバリ、

「自我」

です。

これまで、この連載では「フォースな自分」の発動を妨げる「ノイズ」のようなものがあると書いてきましたが、それを生み出す根源がまさに「自我」なのです。

この「自我」をもつことによって、私たちは本来の自分よりも「イマイチな自分」のほうにメリットを感じ、そちらでいることを選ぶようになります。

けれども、落ち着いて考えれば、最強を捨てて悩みを取るなどという選択が、どれだけおかしなものかは誰にでもわかるはずです。つまり、「自我」はそのような冷静な判断さえも私たちから奪い去っていく、極めてやっかいな存在だということです。

すでにあなたも気づいているように、私たちが本当の意味で「フォースな自分」を取り戻すためには、この「自我」を何とかするしかありません。

完璧に手放すことは不可能だとしても、せめてそのいいなりにならないような対策は講じるべきだと私は考えます。

そのためにも、「自我」がどんなもので、何を企み、私たちに何をさせようとしているのかを解き明かしてみようと思います。

◎ 「身体の内側が自分」が「自我」の生まれる土壌

「自我」は、私たちが自分という存在を次のように捉えた瞬間に生まれます。

「全身の皮膚を境界線として、身体の内側が自分である」

おそらく、「ん? それの何が問題なの?」と思う人も少なくないでしょう。

「イマイチな自分」とはほかでもない、ふだんの自分です。だとすれば、この捉え方こそが私たちの常識であって、とくに違和感を感じるようなものではないはずです。

けれども、バックナンバー「第36話 グッドバイブス ご機嫌な仕事~モーフィアスの赤色の薬」で書いたように、一杯のコーヒーですら正しく描写できない私たちは、あらゆる物事を見誤っている可能性があります。

真偽のほどはひとまず置いておくとして、もしかしたら「身体の内側が自分である」という捉え方もまた、私たちの幻想かもしれないと、少しだけ疑いをもって話を進めましょう。

ではここで、私たちが身のまわりにある「モノ」をどのように認識しているかを想像してください。

たとえば、1個のサッカーボールなら、私たちは表面の皮を境目にした球体の内側だけを「これはサッカーボールである」と見ます。そうでなければ、サッカーボールを作ることも、手にすることも、蹴ることもできません。

そして、この「モノ」捉え方は、先の「全身の皮膚を境界線として、身体の内側が自分である」という自分自身の見方とまったく同じです。

つまりふだんの私たちは、

「モノと同じように自分自身を見ている」

ということです。

ここで見逃してはならないのは、「表面を境界線とした内側」である「モノ」が、この世界からも、他のあらゆる「モノ」からも、分離して独立した存在となっているという事実です。

もし、自分自身を「全身の皮膚を境界線として、身体の内側が自分である」と認識すれば、私たちもまた、世界や他人から切り離されて孤立することになるわけです。

この「世界から分離したあなた」こそが、「自我」の生まれる最高の土壌です。「自我」はあなたの中に種を植え、全身に根を張り巡らし、芽を出して成長し続けます。

そうして、あなたとすっかり同化した「自我」は、「世界から分離した自分」として生きていくために、あなたにあれこれと指令を出したり、さまざまな思いを抱かせたりするようになるのです。

◎ 最後に信じられるのは自分だけ

「自我」をもつことによって私たちが最初に感じるのは、

「絶対的な孤独」

です。

もし、あなたが「全身の皮膚を境界線として」孤立しているなら、たとえ心に深い悩みを抱えていたとしても、他の「全身の皮膚を境界線として」孤立している人にそれを理解してもらうことは不可能です。

相手の経験則によって「ああ、たしかに大変そうだな」と予想や同情をしてもらうことはできても、けっして真の共感を得られることはありません。なぜならば、1個のサッカーボールと同じように、あなたと他人は完全に分離しているからです。

ここで、「自我」からの最初の指令があなたに下されます。それは、

「世界や他人から分離しているのだから、自分だけでなんとかしなさい!」

というものです。

すべての「身体の内側が自分である」人たちにとって、関心がもてるのは自分自身だけです。皮膚の外側はすべて「外の世界」「自分ではない世界」であって、究極的には自分とは無関係だからです。

「自我」が主導権を握る世界では、生きていくために必要な何かを得ることも、安定した生活を脅かす要素を排除することも、すべてはあなたの責任において、自力で行わなければなりません。

あるサッカーボールの空気が抜けたからといって、別のサッカーボールに何かの影響が及ぶことはありません。同じように、たとえあなたが困っていたとしても、他の「身体の内側が自分である」人たちには痛くもかゆくもないことです。

もちろん、私たちはこのような「孤独感」や「自力でなんとかするしかない状況」が、どれだけ過酷なものかを十分に知っています。そこで、友人や恋人やパートナーを見つけることによってそれを解消しようとします。

けれども、それぞれが「身体の内側が自分である」という認識をもったままでは、カゴに入れられた複数のサッカーボールと同じように、本当の意味でつながり合うことはありません。

分離はどこまで行っても分離のままです。最後にはかならず「そうはいっても、関心があるのは自分」という状態に戻ってしまい、私たちがよく耳にする次のような結論にいたるしかなくなるのです。

「結局のところ、最後に信じられるのは自分しかいないんだよ!」

では、解消されることのない「孤独感」をもち、「自力でなんとかするしかない状況」に置かれた私たちは、どんな方法でこの過酷な世界を生き抜こうとするのでしょうか。

ここからは、まさに「自我」の真骨頂というべき戦略が繰り広げられます。

◎ 「イマイチな自分」は世界征服を企んでいる

「自我」は、いたって単純な発想に基づく、次のような行動に活路を見出そうとします。

「そうだ! 私が世界を征服してしまえばいい!」

けっして大げさな表現ではありません。いまこの時代に世界征服を企む人がいないのは、それがまったく現実的でないからであって、もし本当にできる可能性があれば「自我」は果敢に挑むはずです。

文字どおりの世界征服ができない場合でも、その代わりとして、私たちは身のまわりにある小さな世界の征服を考えます。ぜひ、仕事や生活の中に溢れる「小さな世界」をイメージしてみてください。

たとえば、鍋パーティーがあったとします。5、6人が集まるこの「小さな世界」を制するために狙うのが「鍋奉行」の座です。

「鍋奉行」とは、

「ひとつの鍋をどう展開させ、どう終わらせるか、そのコントロール権すべてを握る存在」

です。

くだらな過ぎる例かもしれませんが、まずは「鍋奉行」がたしかに鍋パーティーという「小さな世界」の征服者、支配者であることに注目してください。

ほかにも、学校のクラス、職場、コミュニティー、家庭、2人以上の友人の集まりなどなど、「小さな世界」は私たちの日常に溢れています。

どんなときでも、そのような場の制服者になることを、「自我」をもつ私たちは心のどこかでいつも望んでいるのです。

ではなぜ、「自我」は「世界征服」などというバカげた戦略を立てるのでしょうか。それをすることで、いったい何を得ようとしているのでしょうか。

これまで書いてきたことをたどっていけば、実はとても理にかなったやり方であることがわかります。

「自我」の見る世界において、私たちは世界からも他人からも孤立しています。同時に、絶対的な孤独を抱え、自分以外に頼れる存在はいないとも感じています。

であるならば、

「利害が対立する他人をすべて自分の支配下に置いて、思いどおりにコントロールする」

ことが、自分の安全を確保するための最良の手段ということなります。

興味深いのは、「自我」はいたって現実主義者だという点です。もし、その場に自分よりも力のある存在を感じたなら、一瞬にして「世界征服」の夢を捨て去り、支配される側に回ることを選択します。

「自我」が望むのは自身の安全です。もちろん、支配者になることがベストに決まっていますが、力のある人とその座を争うことで危険が増すようなら話は別です。

「ここはいったん身を引くことで最悪の事態は回避しよう」と、いつでもより安全に思えるほうを選びます。

そうしておいて、自分と同じように支配された側の人たちをざっと見渡し、「この場なら自分が仕切れる!」と確信したなら、自分より弱い人たちの征服者になろうとするのです。

この連載を読んでくれている人なら、ここまでの話が、前話「特別な人になるではなく、特別であることを認める」と重なることに気づいたはずです。

そこに登場する、

「他の人々を背景にすることで特別感を得ようとする試み」

もまた、「自我」による小さな世界征服の一環であるということです。

◎ 利を得たい「自我」はとにかくせっかち

先に書いたように、「自我」が世界征服を望む最大の理由は、

「自分とは完全に分離した他人と、利害が対立するに違いない」

と考えているからにほかなりません。

テーブルの上にひとつの水差しが置かれていて、その中にはちょうどコップ一杯分の水が入っていたとします。イスにはあなたと別の人の2人が座っています。

もし、水差しの水がすべて別の人に注がれたら、あなたのコップは空のままです。それではあなたの喉の渇きは癒やせなくなってしまいます。

そこで、あなたはなんとか一杯分の水が自分のコップに注がれるようにしようと動きます。

「相手の得は自分の損。自分の損は相手の得」

これこそが、「自我」の見ている「利害が対立する世界」です。より正しく表すなら、「自我」はそのようにしか世界を見たくないと考えているのです。

このような捉え方もまた、ふだんの私たちが抱いている感覚にほかなりません。

「早くしないとなくなってしまう」
「早く手に入れないと誰かに取られてしまう」

「自我」は、私たちにこのような「恐れと不安」を抱かせ続けることで、自分の安全、すなわち利や得を取りに行くように命じているのです。

これによって、私たちの中にもうひとつのやっかいな特徴が現れ始めます。それは、

「一刻も早く! が口癖の極めてせっかちな性質になる」

ことです。

ただ、私たちは基本的にはなまけ者です。少しばかり「早くしろ!」と言われたくらいでは、なかなか重い腰を上げようとしません。そこで「自我」は、極めて巧妙なやり方によって「急がずにはいられない」という思いを私たちに抱かせようとします。

それは、

「身体の内側だけがオマエだ。それはいつか消えてなくなる。だから時間がないんだよ!」

という絶望的なささやきです。

こうして私たちは、「人生は短い」という考えを無条件にもつようになります。そしてこの5文字は、私たちの言動に多大な影響を与え続けるのです。

たとえば、本当は時間をかけてコツコツやるべきことなのに、なぜか途中で「こんなことをやっていて何になるんだ?」と、得体のしれない不安に襲われたことはないでしょうか。

そんな思いを抱かせるのもまた、「早く手に入れないと誰かに取られてしまう」と考えずにはおれない、せっかちな「自我」の仕業です。

急ぐために必要なのは瞬発力や処理能力です。なぜか私たちが、集中力や持続力をもつことを苦手と感じてしまうのも、「自我」がそれを「まどろっこしくて役に立たないもの」とみなしているからなのかもしれません。

◎ どんなときでも防御を怠るな!

「自我」から送られてくる先のささやき、「身体の内側だけがオマエだ。それはいつか消えてなくなる。だからオマエには時間がないんだよ!」は、せっかちな性質をもたらす以外にも、私たちの言動にさまざまな影響を与えます。

そのひとつが、

「自分自身を、心も身体も傷つきやすくもろい存在とみなしてしまう」

ことです。

もし私たちが「モノ」と同じように、ちょっとしたアクシデントで朽ち果てて消滅するとしたら、ちっぽけでか弱くて、実に儚い存在と感じてしまうのは当然です。

他人のひと言によって立ち直れないほど傷ついてしまう自分、ひとつの失敗によって根本的な自信を失ってしまう自分、気候や環境の変化によって体調を崩してしまう自分、しっかりとメインテナンスをしていないと弱ってしまう自分。

私たちの目に映る自分自身の姿は、きわめてもろい存在です。

ここでも「そんなオマエが生き抜くために」と、「自我」はさらなる指令を出してきます。

「どんなときでも防御を怠るな!」

他人はもちろん、この世界のありとあらゆるものが、弱い自分を攻撃する対象というわけです。

そこで私たちは、出来事や他人の言動に望ましくない意味をつけ、未来に不都合なことが起こるに違いないと予想し、いつでも最悪の事態に対処できるよう、万全の対策を施しておこうとします。

もし、実際に誰かが自分を攻撃したように感じたなら、備えておいた防御を発動することを瞬時に選択します。

もちろん、ここでのポリシーは「攻撃は最大の防御なり!」です。反射的に怒りや不機嫌さを繰り出し、自分が受けた分を超える苦痛を相手に与えようとします。

こうして私たちは日々、「恐れや不安」を抱えながら、相手を攻撃することによってその思いをさらに増幅するという無限ループに入っていくわけです。

けれども、そんな様子を見て「何かがおかしい?」と疑問を抱き始めた私たちに、「自我」はいつでもこう言い聞かせようとします。

「たしかにそんな生き方はつらいかもしれない。でも、仕方ないだろう。オマエが安全でいるためにはこの方法しかないのだから」

なんとしてもいまのやり方を貫けということです。

「誰も信じてはいけない」「誰にも頼ってはいけない」「この世は危険だらけ」

もちろん、私たちはその言葉を親からのアドバイスのように受け入れ、再び過酷な日常へと戻って行くのです。

◎ 「自我」はなによりも没頭することを嫌う

巧みな戦略で、まるで暴君のように私たちを支配する「自我」にも弱点はあります。ぜひ、ここまでの情報から想像してみてください。

「自我」が、私たちに絶対にしてほしくないと考えていることは何でしょうか?

答えは、

「考えるのを止めること」

です。

「自我」が安全のために提案する戦略は、どんなときでも「備えあれば憂いなし」です。そして「備え」の具体的な中身は、これから起こるであろう危険やリスクなどを、私たちが頭の中で想像して初めて明らかになります。

もしあなたが、「これから先、自分の身にわるいことはいっさい起こらない」と心から信じていたとしたら、危険やリスクについて考える必要もなくなってしまいます。当然、「備え」などという概念ももち合わせていないはずです。

「自我」は、あなたがそのような脳天気な状態になって、「備えを怠る」ことをもっとも恐れています。それだけはなんとしても避けたいとの思いから、

「考えろ! 想像しろ! 危険やリスクをすべて洗い出せ!」

と必死に命じているのです。

おもしろいことに、そうなると必然的に「自我」は、

「あなたが何かに没頭しないでほしい」

と願うようになります。

なぜならば、何かに没頭するとき、私たちの思考は自然と停止してしまうからです。実はこの状態こそが「恐れや不安」のない「いまここ」にいる証しなのですが、「自我」はそれを無策で無防備だとみなします。

そこで、繰り出すのが「考えろ! 想像しろ! 危険やリスクをすべて洗い出せ!」です。そして、このような「自我」の指令を真に受けた私たちは、あたりまえのように、

「じっくりと考えてから行動しなくてはダメだ!」

という、よくわからないポリシーを信じるようになるのです。

実は「自我」は、どれだけ時間をかけて熟考しても、結局は未来を正確に予測できないことをよく知っています。だとすれば、あなたが何もしないでいてくれることが最高に安全な状態ということになります。

つまり「自我」は、「じっくりと考えてから行動しなくてはダメ」どころか、「できればずっと行動せずに考えていなさい」とあなたに言いたいのです。

けれどもそのような考えは、先の「一刻も早く!」とは完全に相反するものです。そこで、この大きな矛盾を解決するために、

「行動してもいいけど、考えることはやめるなよ! 没頭してはダメだぞ!」

と、無茶な注文を出してきます。

こうして私たちは、「先のことを考えながらうわの空で行動する」という、必然的に本来の能力を失うやり方を習慣にしてしまうのです。

ちなみに、私たちはよく、「やりたいことをなかなか行動に移せない」という不思議なジレンマを抱えます。もしかしたら、それもまた「自我」の仕業なのかもしれません。

◎ 「自我」はいつか滅びる自分が大嫌い

そんな「自我」は、いつでもけっして消えることのない苦悩を抱えています。それは、

「実は自分が大嫌い」

という悲壮な思いです。

一見、自分を強く愛しているように見える「自我」が、なぜ本当は自分を嫌っているのでしょうか。

その理由は、これまで書いてきた次のような認識にあります。

「身体の内側だけの自分はいつか消えてなくなる存在」
「心も身体も傷つきやすくもろい存在」

どれだけ苦労して「小さな世界」を征服しても、誰もがうらやむ「特別な存在」として地位や名声を獲得したとしても、この世の利や得を洗いざらい手に入れたとしても、「自我」が棲む場所である私たちは、いつか必ず朽ちて消滅してしまいます。

「自我」はこの事実がどうにも我慢なりません。当然、ちっぽけでか弱くて儚い存在としての自分を心の底では強く憎むようになるのです。

あなたも、誰かから「どうしても自分のことが好きになれない」という悩みを打ちあけられたことがあると思います。あるいは、あなた自身もそのような思いに苛まれることがあるかもしれません。

それもまた、自分が大嫌いな「自我」によってもたらされる感覚だということです。

こうして客観的に眺めてみると、「自我」というのは本当に支離滅裂で、本当は何がしたいのかもわからないくらい、自分を見失っていることがわかります。

いったい、「自我」が抱える最大の問題とは何なのでしょうか。それは、

「身体の内側だけが自分という認識をもつために、身体の外側にあるすべてのものを自分ではないとして捨て去っている」

ことにあると私は考えます。

詳しくは次話で書きますが、私たちは「生命」というものを大きく見誤っている可能性があります。

実際に、人も動物も植物も、その他のあらゆる生きものも、「生命」はそれぞれの身体の中にだけあるというのが一般的な見解です。

でも、これまで書いてきたように、そのように自分を認識することによって、私たちはやっかいな「自我」を生じさせ、完全に破綻した「自我」の戦略に巻き込まれているのも事実です。

では、どうすれば私たちは、このような状況から抜け出せるのでしょうか。最大のヒントは「自我」が捨て去った「身体の外側にあるすべて」にあります。

後編の次話では、「全身の皮膚が自他の境界線」とする発想を思いっきり転換させ、「自我」の力を最大限に弱める方法について書こうと思います。

今話は「自我」の話に終始したので、やや不本意ですが、暗いトーンのまま終わることになります。けれども、「自我」に打ち克つための第一歩はやはり、「自我」について知り尽くすことだと思います。

この手の話は、自分の外にある情報として読んでもあまり意味がありません。

ぜひ、あなたの中に次のような気持ちが本当にあるのかをしっかりと確かめておいてください。

・絶対的な孤独感
・最後に信じられるのは自分しかいない
・小さな世界を征服したい
・相手の得は自分の損、自分の損は相手の得
・人生は短い! 一刻も早く!
・心も身体も傷つきやすくもろい
・どんなときでも防御(攻撃)を怠るな!
・考えろ! 想像しろ! 危険やリスクをすべて洗い出せ!
・実は自分が大嫌い

では、次話でまたお目にかかりましょう。今週もおつき合いいただき、ありがとうございます! 来週も乞うご期待!

Photo by Satoshi Otsuka.

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1 個のコメント

  • 自分自身のこと!?とも思えるほど、自分にあてはまっていた【フォースを使え!】でした。例えば、大変な思いをした、会社での打売り上げ競争。周りは全てライバルだから(バラバラ意識)、蹴落とすためのあらゆる手段を講じ(未来を、考えている自分)、売り上げナンバーワンを取ったものの、会社を辞めて行く友達が居り、えも言われぬ感情がのこる(イマイチな自分)。何の疑いもなく、これが「やるべき事だ!」と信じてました。自我の塊!?、、、(笑)
    でも、そうではない。皆の良いとこ取りで(ひとつ意識)、不足を補いながら(大きな自分)、一人では出来ない売り上げを達成すれば、違った売り上げの結果のみならず、それ以上に嬉しい(フォースな自分)のではないでしょうか。
    でも、これがなかなか出来ない、、、。ちょっとした嫌味、妬み、文句、などによって、必要もない「意味づけ」をし、あんちくしょう!と過去にこだわり、ねじ伏せてやる!と未来にも思いを馳せ、「いまここ」を忘れてしまう、、、今日この頃。いまここ?(笑えない)
    最後の九つの箇条書き。自分にとっては、あるある、でした、、、痛い(笑)

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    執筆家、音楽家、グッドバイブス・エバンジェリスト 大学中退後、1994年まで音楽家として活動。95年、インプレス刊のIT雑誌『インターネットマガジン』編集部に参加。99年に編集長に就任。2002年に同社を退社。IT系コンサルタント、執筆家として独立すると同時に音楽活動を再開。2010年にクラウドやガジェットの活用をテーマにしたブログ『ZONOSTYLE』を主宰。2015年からは「しあわせに働く」をテーマに、ブログ『ジョン・レノンのイマジンみたいに働く』を公開。2016年に結成したブルーアイドソウル系バンド「蒼いライオン」でボーカル、ギター、作曲を担当。2019年に『グッドバイブス ご機嫌な仕事』(インプレス)を刊行後、グッドバイブス・エバンジェリストとして「完全無欠のしあわせな仕事」を伝導中。 著書に『すごいやり方』(扶桑社)、『iPhone×iPad クリエイティブ仕事術』『グッドバイブス ご機嫌な仕事 』(インプレス)などがある。